ショートエッセイ いきもの語り

年老いた猫が寝たきりになり、見送りました。3年間このブログを開くことを躊躇っていましたが、コロナ禍で感じ続ける生きていることの奇跡と感謝をあらためて綴ってみようと思います。

われなべにとじぶた

折れ曲がって道にはみ出たダリアの花を
ヒビの入った湯飲みに活けてみました。
ダリアは、数年前、近所の、野菜や米も扱っているあまり主義主張のない地味な花屋の店頭に、満開の状態で苗が売られていたので買ってきたもの。
湯飲みは、30年ほど前、駅前の食器屋さんで扱っていたある陶器作家さんのファンになったことがあり、確か両親に贈ったはずなのにいつの間にか自分で使うようになっていたものです。
どちらもそれぞれ完璧な状態ではありません。
今週作り終えたある人たちの対談動画で、
「最近は、正解を求めすぎてやいませんか?」
という話がありました。
正しいって何だろう。自分の考えじゃなくて、みんなが正解と言うものばかりさがしていませんか?それでは何も生まれてこないんですよ。自分の思いが大事なんです。と、その人たちは話していました。
ダリアも湯飲みも、たぶん最早絶対に商業ベースには乗らない、「正しい」姿ではありません。
地面に倒れたダリアは、寂しい姿をしていました。
湯飲みは、手放すのは今日か明日かと悲しい気持ちで棚に並べていました。
そんなダリアを、そんな湯飲みに挿してみたら、
不思議とどちらもピカピカに見えてきました。
これは、たぶん私だけにとっての正解です。
われ鍋ととじ蓋の、かつてどちらにも心を動かされた記憶があるからでしょう。新しい組み合わせを見つけたことで互いを生かせたような気がして、そんな嬉しい気持ちが、きれいだなと思わせてくれただけに違いありません。
それでも、ただひたすら美しいと思うんです。

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道に倒れたダリアとひびの入った湯のみ