ショートエッセイ いきもの語り

年老いた猫が寝たきりになり、見送りました。3年間このブログを開くことを躊躇っていましたが、コロナ禍で感じ続ける生きていることの奇跡と感謝をあらためて綴ってみようと思います。

ダリアの顔

数年前の母の日に、ほんの数百円で買ったダリアの苗がたくさん花をつけています。

母が大切に育ててくれているからでしょう。

小さな路地沿いにこれでもかと咲き誇っているので、

数本を切って部屋に飾ることにしました。

どれを部屋に連れていこうかとじっと見ていると、

中には道に迫り出して、そこから上へと顔を向けている花もありました。

なので、

その、道に這ってでもなお顔を出したい、枝の曲がった2本を連れ帰ることにしました。

花はどれも大きな株の中ではなく、生い茂る葉の外に顔を出しています。

道ゆく人に、見て見てと訴えているようです。

私はひっそりと咲いている草花を好みますが、

こうして立派に咲き、存在を主張するダリアに健気さと花としての存在意義を教えてみらったような気になります。

でも、舗装道に這ってまでも顔を出すのは危険です。人や自転車に踏まれてしまいますからね。

花は危険を知らないのでしょう。いえ、むしろ、葉の中に花をつける意味のなさを知っているからこそ、危険を冒してでも顔を出して咲くのでしょう。

部屋に連れ帰った2本には、虫も風もやってきません。ただただ私というひとりの人間を楽しませてくれるだけです。

そういう存在意義でもいいか。

花瓶の花に問いかけています。

ダリア